「釣り人の一絃琴」について

釣りをしない人が想像する釣りというものは、
もしかしたら「日がな一日釣り糸を水面に垂れてボーッと待っているようなもの」
となのかもしれない。
実際に行ってみると、そういったは釣り方は極わずかで、
餌をつけたり仕掛けを変えたり、はたまた僕のように絶えず移動して探り歩くこともあって、
なかなか忙しない。
いろいろな面で、釣りはするのとしないので、かなりモノの見え方が変わっても来る。


大きな魚を釣りたい、という気持ちは殆どの釣り人にあると思う。
しかし「こうすれば必ず大きな魚が釣れる」という絶対の方法は殆ど無い。
自然が相手の人の手仕事に「絶対」はない。
大きな魚がいつ来ても良いように、太くて強い仕掛けや道具を使えば良い、
というものでもない。
マグロを釣るような大きな道具では(針だけは合わせる必要があるけど)、
いくら大物でもブラックバスを釣ったところで、面白くもなんともない。
その魚独特の手応えを敏感に感じられる道具のほうが魚とのやりとりが圧倒的に面白く、
したがって、できれば道具はその対象魚の抵抗に対して、
太すぎず強すぎない、ぎりぎりの線のところで臨むのが良い。
(弱い道具仕立てで大物を釣った話は、釣り人特有の倒錯した自慢だ)


浮木が、糸が、竿が、不意に引っ張り込まれる。
大物だ、うまくやるぞ、と思っても、力任せの引っ張り合いをすると
あっという間に糸を切られて逃げられる。
竿は、人の手と糸の間で衝撃を吸収してやりとりするためにある。
けっして、ただの棒ではいけない。
しかしいくら竿がしなやかでも、かかった魚が大きく強ければ、
その緩衝を超えた膂力で糸は断ち切られ、大物を逃すことになる。
そこが難しくて、楽しい。
簡単に勝つことが出来ない強豪と試合を望むスポーツ選手のような気持ちだろうか。


こういったときに、底に潜ろう、沖へ逃れようとする魚と、
駆け引きする人の間にある糸が、空気を切り裂き、不思議な音をたてる。
糸鳴り、という釣り人しか知り得ない現象だ。
たとえかかった魚が手のひらサイズの池の魚でも、
道具がマッチしていたら糸鳴りは起こる。
その音色は、釣り人を焦らせると同時に、例えようもない甘美な至福の音楽と化す。
僕自身、何度耳にしてもたまらない気持ちとなる。
思考ではなく、官能そのものを刺激する。


古代ギリシャ時代から存在し、現在様々な場所で復刻も行われている
「エオリアンハープ」という楽器がある。
(画像は借用)
楽器なのに、人間が演奏するのではなく、風によって弦が共振し筐体を共鳴させて奏でる、
自然を愛した古代ギリシャ人のものらしい不思議な楽器だ。
現代では、風の通り道が計算された公共施設に設置されたり、
インスタレーションという、場所や空間を体験する芸術作品としても有名だ。


風が奏でるエオリアンハープを思い出すと、
糸鳴りは、魚と釣り人が織りなす「釣り人の一絃琴」のように思えて仕方がない。
実際に巨大なエオリアンハープの録音をしたことがあったが、
これがやはり自然相手で、なかなか思い通りには鳴ってくれないというところも、
釣りに似ていると思う。


僕の本業(こういった言い方が正しいのかどうか、未だに悩む)である音楽と、
釣りは関係が深い、という人も多い(実際に音楽家で釣り人、という人は多い)のだが、
僕自身はそうは思っていない。
いや、自分のように、毎回その場において何をするのか決めずに、
場所や状況や共演者(釣り人にとっての自然環境のようなもの)によって、
全く演奏を変化させる即興演奏は、少し共通性があると思うが、
僕個人が釣りに惹かれる大きな理由の一つは「非社会的」な側面であり、
音楽はかなり社会的な側面が強いので、釣りとは違う、と僕は捉えている。


音楽も釣りも、ある意味では「遊び」のものであって、
少しきつい言い方をすれば「無駄の楽しみ」だと思う。
生産性があるかといえば、ないことはないけど、それほど高くない。
何も産まない「無用の美」の極みが、糸鳴りに象徴される。
いつ起こるか予想し得ない、心震わせるあの音を、
次は聴くことが出来るだろうか。
楽しみで仕方がない。