釣行時の幻聴と幻視


11月末の四国〜淡路島釣り巡礼の間のこと、
毎日あまり寝ないで朝まで釣りをしていた。


釣りをやったことのない人、やっても僕がやっているようなやり方を知らない人だと、
「大海原に糸をたれてボーっとのんびり魚が釣れるのを待ってる」と思うかも入れないが、
僕のやり方はちょっと違っていて、かなり神経を使う釣り方だ。
基本的には全く投げない。リールはただの糸巻きのようなもので、堤防の足元にするすると垂らす。
ウキとか目印になるものはなく(あっても暗闇では視えない)
リール→竿→糸→(途中に軽いオモリとかがあって)針の先に餌、それのみである。
海中に針を落とし、海底に着底したら、そこから色々なことを試して、魚がいるところを探る。
魚がいるかいないかは、時間や天候や季節や地域差やその他の条件によっても変化するが、
それを想像力フルに使って、魚がかかったかどうか分かるのは、腕の感覚だけ。
目は閉じていても良いけど、高い堤防だと落ちる危険性がある。高くなくても落ちる。
そして、そのまま堤防の縁を、そろそろ歩く。
500m進むのに1時間かかる、というと早過ぎる。魚信が沢山あったら200m1時間か、
もっと遅い時もある。
前衛舞踏かお能か、と言われたことがある。
こういう釣り方は落とし込み/ヘチ釣り/探り釣りなど色々な微妙な差のある方法で名前があるが、
総称すると「脈釣り」まさに手で脈をとっているかのような、結構集中力を必要とする繊細な釣りである。


どんな寒い時も暑い時も、この釣り方が好きでやっている。
11月末はなかなか冷える、特に海は。
短い時で5時間、長いと7時間位は休みなく、やる。
その間、基本的にトイレにも行かず、飲食もしない。そんなことは忘れている。
たまに気を抜くと、糸の先から気配が抜けるのか、そういうときに限って良い魚がかかる。
人は「釣れた」というけど基本的には「釣る」釣りだ。


そんなことを、ライブをして移動して寝ないで毎晩朝方までやっていた。
全身で脈を取る、そんな感じにしていると、全身が目となり耳となる。
特に耳にくる。
普段聞き逃している並列に音が立ち上がってくる。
テレビのホワイトノイズ画面のようならまだいいが、それより結びつきやすく意味を持ちやすい音の塊は、
数日経つと、まず人の声に聞こえるようになってきた。
夜中全く人のいないところを歩き釣りしているのだが、突然目の前に人が現れることもあるので、
そうかと思うと、目を凝らしても誰もいない。
そのうち、歌が聴こえるようになってきた。
最初は、さあ帰ろうかな、と思うところで「おーててつないでみなかえろー」というようなメロディが
聞こえた気がしたのだが、いくらなんでも朝4時半の掃除中の船の方から聴こえるのはおかしいし、
どこか針飛びしているようにメロディーも不明瞭だ。おかしい。
それがどうやら、船の出すあらゆる音と海から聴こえる数多くの音の中から、勝手に脳が結びつけたものだと気がつくまでに、ちょっと時間がかかった。


朝方釣りが終わる頃には、活かしておいた魚を〆て血抜きをする。活け〆だ。
魚の中には「鳴く」奴がいる。泣いているのかもしれない。
穴子などはよく鳴くが、これは首を切り落としても声を出す時がある(これは本当の音だ)。
釣りも好きだが魚が好きな僕は、すまない、ごめん、と願いながら延髄を斬る。
宿に帰ったら、どんなに疲れていても、内臓とエラを落として鱗を落として洗い、処理する。
これには掃除も含めて結構時間と体力も要る。
ちょっと寝たら朝ごはんにする。


これを毎日のように繰り返していたら、釣りに出ていなくても、何やら聴こえる気になってきた。
それは、夜空の星を勝手に結びつけて星座にしているような感覚の「音座」であり、
別段意味も何もないのだろうけど、完全に疲れきっているけど興奮しきって集中している僕の脳は
その時にはどうしても何かを結びつけて「聴いてしまう」ようになっていたのだと思う。


夜の海は怖くて、美しい。
月夜の反射する波は恐ろしくきれいだが、新月や真っ暗の中、黒い中に黒い色が重なって見える波は、
なぜそれが見えているのかわからないが、目を奪われる美しさだ。
(これは普段でもそう見えている)
次は、目に来た。耳と同じように、見えるものが勝手に意味を結び始める。
誰かといるときは大丈夫なのだが、特に一人で夜の海に出ていると、もういけない。
しかも、それほど怖くもない。こんなものかと思う。
もしかしたら、古代に狩猟や漁で生活していた人間は、こんなふうに色々なものを畏れたり、
していたのかな、などと、最初は思っていた。
それが進むと、それはそうやってあるもので、普段見えてなかっただけなのではないか、
と思うくらい、実感を伴ってきた。


最終的に、淡路島の真っ暗な播磨灘にむかった外湾で釣りをしている時、
真っ暗な中に、白い服を着た人のようなものを見かけたのだが、これがおかしい。
どうやら釣りをしているようなのだが、動いていないのにジリジリと大きくなっているようにしか見えない。
自分が小さくなっていくようでもある。これには参った。怖かった。
ここらへんで、あ、神経がだいぶヤバいことになっているな、とは思いつつ、
そう感じることを不快に思ったりはせず、こういうこともあるのだな、と思っていた。
淡路島では、夜も昼も釣りをした。昼は比較的大丈夫だが、耳は結構なことになっていた。
これが、怖いというよりも、新しい発見だった。
いつもそこにある音は、聴きよう次第では、こんなには未知の音世界になるのか。
あの感じは今も覚えている(けど今現在はそれを聴覚で知覚できない、残念だ)。


あれから時間もたって通常営業のライブ稼業に戻った。
毎日釣りをするわけではないし、あの兆候はない。
しかし、あの感覚だけが、どこかに残っている。
あの旅以来、あの「聴」が新しい何か自分の音楽性を開いていくきっかけになるのではないか、と思う。
そういうのを求めてやってはいけない。
幻聴や幻視を得ようとするのではなく、そのものになってしまえばいいのではないかな、と。

この巨大な仏像は、今は管理者もなく倒壊寸前だという。真下は国道だ。
倒れる際には、間近で見てみたい、と思いながら、テトラの隙間からアイナメを釣った。