大阪にて

昨夜は名古屋からの帰りがけで京都西院ライブ。

ちょっと音が響きすぎるフレンチレストランでの爆音生音ベリーダンスミュージックは
少し耳というか頭にきてくらくらしましたが、楽しく終了。
気が遠くなっているときに同じベースラインを繰り返しているとますますわけが分からなくなる
リズムゲシュタルト崩壊を感じて、自分で何拍子か分からないくらいのアブストラクトにすると
目が覚めたのが発見。
最近やっているあるリズムの感じ方というか楽しみ方はいろいろと奥が深いようです。
リズムは出し方ではなくて感じ方です。音楽もそうだけど。


10日間毎日深夜か朝まで飲んで音楽やってるか聞いているか盛り上がっているか。
さすがに昨日の終電の中では久々に、疲れ、というものを感じました。
そうそう、この感じ、もうなんもできひんわ、という感じ、これですね、疲れ。
朝まで寝たらどっかいきました、疲れ。


あれほど朝5時半に一斉に鳴いて毎早朝僕をたたき起こしてくれていたセミの声がしない。
良く寝れるけど少しさびしい。


今週は関西です。
もはや最近大阪でのライブがありません。
自分で企画する時間はないし、誰も呼んでくれないから。
そのぶん京都からのお声が多いです。ありがたや。


来月本当に久しぶりのボイラーズの大阪ライブがあります。
自分としてはこの夏の長旅を経てものすごく変わったと思う。
ある種の感覚が生まれている。


どうも最近自分はかたちのないものにしか興味が愛情を注げないのではないかと
思ってしまうときがあります。
なので言葉にも出来ない。大事なことはどこにも書かないし実は言ってもない。
一番大事なバンドはホームページもブログも作らない。
もったいなくて、ね。
生きている実感は誰にも伝えられるものではないです。


この夏、ある二日間のライブで、感じたこと。
ある日には死者が蘇り、ある日には失った身体の動きが喜んで踊った。
どちらも奇跡を見る思いだった。
取り返しのつかない過去、というものはない。
どんな過去も、変えれることを知った、気がした。
かもしれない。


正邪のようにふたつではけして割れないものを非常に大切に思う。
はっきりと好きとも嫌いともいえないもののなかにある何か。
言葉に出来ない、目に見えない、耳に聞こえない、感じることの出来ない
そんなことばかりに興味のいく夏の日々。
充実しています、とても楽しい。
音楽をして、音楽を得ている気がしない。


どっか経済学の人の本にあったなあ。
金や富というのは横に流れている川みたいなもんで、
ちゃんとやればそれをすくって自分で呑むことが出来る。
しかしそれを我が物にしようと行く道を変え、溜め込もうとすると
かならず思い通りにはならない。
その飲める水は流れているからこそ、のどを潤すおいしい水であり
溜め込めばまた別のものだ。


最近音楽の本から経済や思想書のほうに読書量が傾いている。
そこに芳醇な音楽を感じる経済書、なんて読んでいると非常に気持ちが良い。
金を儲けるつもりはさらさらなくて、ひたすらそこに音楽を感じる。
どちらも人のコミュニケーションであり、その交換だからかな。
同様に、ライブの後に音楽でない何かをとても感じるときが多くなった。
人間のこととか、やはりコミュニケーションのこととか。
どうもコミュニケーションなんていうと良いほうばかりを耳にするが、
そうじゃない戦争や悪政や偽善や欺瞞もすべて。
そろそろやっと人のことに興味が行くようになったのだろうか。


しかし音楽は絶えず、生きていて良かったと思わせてくれる素晴らしいものだ。
(僕にとっては、だけど)
人間のやってること、全部出るもんな。


と、またコメントなどまったくつかないであろう日記など。
読む人がいることは意識しているけど、いろいろな対話を。
自分自身も相当面白い。業が深いだけに見方もいろいろ出来て。


楽しい音楽が、身体の中に飛び跳ねている感覚があります。
演奏していなくても、無茶苦茶楽しい。
演奏したら、もっと楽しい。
ああ楽しい。
何を見ても音楽を感じ、何を聞いても何か他の世界のことを感じる。
過去も未来も現在もなく、音楽を感じる。


さて忙しいです。
たまった連絡仕事、ブッキング関連。
10月初旬にさがゆきさんが関西に来る予定。
どっかでみたいですか?アイデア募集中です。