独興@祖師ヶ谷大蔵カフェムリウイ

daysuke2008-06-21

高岡大祐tuba 無頭笛


久々にムリウイで完全ソロ。
東京で最も落ち着いて演奏できる場所のひとつであるここではいつも
自分でも予想外の創意が産まれる。


あいにくの雨模様、この日東京の湿度は98%だという。
電車の中は気持ち悪いが、ムリウイには風が通っていて
冷えた湿気が逆に気持ちが良い。
僕はどの季節も好きだ。


演奏前から「準備」という気持ちがある。
即興演奏なので何をやるかは準備していないけど何かがスタンバイしている感じ。
なんだろう、自分でも分からない。


椅子に座ってtubaを構えて、吹く。
何を「準備」していたか、この時点で気がつく。
お客さんに言ったっけ
「アジア人の顔して日本語で話してますが、
 どうか私のことを見たことも聴いたことのない国からきた
 知らない部族の人間だと思って聴いてください」
リズムもメロディーも、音色も節も、たった一人しかいない村人のように。
自分の数え方、歌い方、考えるのではなく感じるのでさえもなく
ただただ好きなことだけ。
こんな音楽を持つ人がどこかにいたら良いなあ、と思うことをそのままに。
自分の好きなことが自分のできることだ。
(自分のできることが自分の好きなこと、ではない)


いくつかに区切って、それぞれに違う感じで。
なんにも考えない、ほんとに考えない。
最初に一つ音を吹く、もう一つ別の音を吹く、それだけのことから「練る」。
音が自発していく。「自発」いい言葉だ。
こうやりたい、という気持ちが完全に消えていく。
音はそれ自体が次の自発を誘発して、テクニックに淫することもない。


2部の最初では最近執心の無頭笛だけの演奏にトライした。
これはただの筒状の吹き口をもつ中近東や東欧の笛(ネイやカヴァルなど)の吹き方を模したもので
(というのも本物をほとんど見たことも聞いたこともない)
たまたまリコーダーの頭の部分を取り去って吹いたらいい音が出たのでそれ。
尺八やケーナのような音が出るが、ノイズや倍音成分などの多い音色で面白い。
これは音色が次へ「自発」していく。
自らの意思というよりは物理の意思に導かれる。
演奏中に急に変な音がしたと思ったら口笛吹きながら吹いていたことに気がついた。
一人なのに全然あわない合奏をしている二人のような演奏。


tubaに戻る、ネタとしての即興演奏はしたくない、しかしいろいろな音楽をやった、
尽くしたか、いやまだ、また音を並べ自発を待つ、最後の演奏は練りが出るまで少し時間がかかった。
自分の並べた音自体が意味を持ち歌いだすまで待ち、
ただの音並びが「歌」になったときに自分の意思がそこに載る。
まるで乗り物に乗せてもらうような感覚。エゴはない、ドライブ感だけがはっきりと手に残る。
存分にやったと思う。


すでに書いてしまったが、大切なことに気がついた。
「自発」することと「練る」こと。
誰だって自らのエゴを捨てたいに決まってる、自意識はお荷物だ。
管楽器奏者はエゴを持たないと最初の音すら出ない。
それがなくなるのは、大きな意味での音楽の上に乗るしかない。
テクニックのことなんて何にも興味がなくなってきた、
美しいか強いか早いか、そんな感じのものでいい。
オカルティックに思われるのは心外だがそういわれても仕方がない。
つくづく東洋人でよかった、と思う。


遠来の友人ヤニックも来てくれていたこのライブ。
自分には十分なお客さん、素晴らしい音響を持つ環境とお店の人たち。
すべてが揃っていてやっと出来た新しい境地へ。
ありがとうございました。
この演奏以前と以降がまったく自分が違うことを自覚した。
これはいわゆる即興演奏ではない、いみじくも単なるイメージだけでつけた
「独興」というのがふさわしいと思う。
やっとここまで来れたという思いで非常に感慨深い夜だった。