渓/高岡大祐duo&solo@津cafeシマダ輪店

daysuke2008-06-10

渓g 高岡大祐tuba


二日間の短い旅へ。
最寄り駅から電車で一本、津へ初めて。
かなり早めに着いたので駅でマンウォッチング。
近鉄のこのあたりの沿線の人たちの感じは独特だ。
今回の主催者である三上君に車で駅に迎えに来てもらい会場へ。
大きな道路沿いのシマダ珈琲、雰囲気の大変良い感じだ。


ちょっとビールを飲んで客待ちして開演。
この日はちょっと変則的にデュオから先に。
店は大きな道路沿いでそこに完全生音二人なのでギターの音量に合わせて演奏。
われながらせわしない速度感のtubaだ。


続けて僕のソロ。
どうも前日うまくいったイメージにとらわれてしまった感がある。
天井も低く自分の音も聞きやすいのだが何故か音感が捕らえにくい。
そんなに悪くないだろうが、もう少し前に進みたい。
壁にかかる古風な時計が九つ鐘を打つのとぴったり終わる。
そのまま渓さんのソロ。
道路の音などが最初は気になるが耳の焦点がギターに合わさっていく。
最近と同じで耳栓目隠しスタイル。
僕は一番近くで聞いていたから良かったが離れた位置の人には難しかっただろうか。
いわゆる「倍音系」演奏ではないのだが倍音を聴く楽しみが大きい渓さんのソロ。
いずれはクラシックミュージック用のホールで聴きたいものだ。


ちょっと休憩して主宰三上君含めて地元の人たちとセッション。
ダラブッカ、フレームドラム、サックス、ディジュリドゥ。そこに我ら。
やる前に一言だけ言っておいた、
音量差があるのでなるべく小さい音の人の演奏を聴きながら演奏しましょうと。
つまりはよく人の音を聞いた上で自分の演奏をしましょう、ということなのだが
結局よくある自分のリズム垂れ流しでの民族楽器だらだらセッションになってしまった。
渓さんは最後のほう寝てた。
都心地方に限らず日本中どこ行っても民族楽器といわれる(それにしてもどういう定義だ?)
楽器を手にセッションなどする人がいる。
別にそれがいけないことだとは言わないが、疑問は残る。
細かい理屈はともかく退屈なことが多い。疲れさえしない。
何にも残らない。
始まる前にそういう楽器をやっている人と話をした。
セネガルから来た友人と共演したというと「ジェンベですか?」という。
いや、ギターの弾き語りだ、というと意外そうだ。
世界中にギターを使った音楽があってポップスがある、ということが抜け落ちている。
日本人ですか、じゃあ尺八ですね、と言われても演奏できる人はいまや極々一部だ。
ギターを演奏する人の千分の一もいるかいないかじゃないか?
そういうことを何も考えないで他国の楽器をやるというのはどういうことだろう。
ストックホルムの若者が今年の読売巨人の打線は最高だ、といっているような違和感か。
違うか。でもなんかおかしい。
自分はどうかといえば、西洋文化に影響されまくったこの国、いやもう全世界か、
その中にあるtubaという楽器をシンセやギターと同じように無色の楽器だと思っている。
色も味もない。自分でつけよう。


道長くなった。
それにしてもこのセッション中にわけが分からなかったのは
お店の人が薄くBGMをかけ続けていたことだ。
最初から気になっていたが最後までかけ続けた。
私らの演奏に関心がない、というのはともかく、嫌がらせだろうか。
非常に釈然としなかった。


まあいいや、で終わって駆け足で近鉄に乗り込み名古屋へ移動。
渓さんちで沈没。