むかしむかしあるところに

よくしらないものをすきなわかものがおりました
それまでまったく興味がなかったある形のないものに触れてとても楽しくなりました。
自分も何かこれを作りたい、と思い、それにはまず自分で作れるものを作らないといけない
と思って、こつこつとかたちのないものをつくる準備を始めました。


しかし若者には知識がありません。
そこにどの部品を置いたらいいのか、どこがドなのか、何も知りません。
そのとき知っていたのは、自分を包み込むような大きなものでした。


まわりのみんなはどうやってそれを作るかと知っているようです。
何も知らない若者は必死になってそれを吸収しようとしました。
いろいろな人に教えを請いました。
でもそれは、自分が求めるものと、何か違うような気がしました。
でも若者はまだ何も知らなかったので無我夢中で学びました。
何が正しいのか何が間違っているのかを考える時間はありませんでした。
自分が何を求めているのか、そのはっきりした形も分かりませんでした。
なぜなら、それには形がなかったからです。


長い年月が過ぎました。
若者は多くの経験を積みました。
形のないものを求めて、まずはその形が作れるように努力しました。
他人の求めるものをかならず提供できるようにまい進しました。
いつもその形のないものを目指して。


気がつけば若者は立派に年を取って多くの経験と宝物のような時間を過ごしていました。
ついに目の前に自分が最初に求めて作り上げようとしたものが出来つつあるのです。
それは自分自身でした。
かたちのないものとは、自分自身だったのです。


しかし出来つつあるものを見て彼は愕然としています。
それは形のないものなので、ここでは形のあるものに例えて書いてみましょう。


ある人が独力でとてつもない車を作ろうとしたとしましょう。
それは最高級のスポーツカーのように洗練されていて、
かつ10tトラックのように実用性があります。
ある人が独力でとてつもないpcを作ろうをしたとしましょう。
それはどんな難しく大変なこともあっという間に処理する高い能力を持ち
どの世界にもアクセスする順応性があります。


ただその車を求める人は誰もいないのです。
試す前に誰もが恐れをなして近づきもしません。
そのpcはインターネットにつなぐ規格が独自すぎるように思われて
誰もそこには繋ぎません。


しかしこれは形のあるものへの例えです。
彼の作ろうとしたものはかたちのないものでした。
元若者は自分が占有するための自分だけの宝物を作ろうとしたわけではありませんでした。
最初は好奇心から、いつのまにかそれを作る過程で多くのことを学びました。
ここにあるものは、確実に良いもので、皆に幸せを与える可能性があります。
しかしそれが伝わる可能性は元若者には分かりません。
自分の手の中にある、光を放つなにかを見て、呆然とするばかりです。