坂田明as,cl,vo 高岡大祐tuba 高良久美子vibraphone,per,本田珠也ds

今年も春一番に坂田さんと。珠也さんとは初共演だ。
天気は微妙。晴れたり曇ったり小雨だったり。
僕らの出番中も天気はめまぐるしく変化した。まるで即興演奏だ。
最後のシーンで坂田さんが吹きまくり一気に熱量が高まった時に、燦燦と陽が照ったのはぴったりだった。


思うに、こういう野外での即興演奏というのは難しいものだと思う。
この特別ユニットに限らず、即興演奏はライブハウスなど特定の建物の中にある会場内で演奏されることが多い。
閉鎖空間、というほどのことはないけれど、ある程度そういう限られた空間の中での即興演奏のほうがうまく行きやすいのではないか、と思う。
うまくいく、というのも、説明が難しい。
即興演奏にはいろいろな種類があるし、一概にも言えないけど、自分がやっている類の音楽で言えば、
「コミュニケーション・ミュージック」だと思っている。
別に演劇的に決まりきったセリフのように会話的演奏をするのではなく、普段の会話同様、何が飛び出すかわからない(それも人によるが)
コミニケーションの連続するさまを、お客さんはそれを知った上で鑑賞する、というのが多いと思う。
まずこの点で、「演奏者がそういうコミュニケーションを取り合って即興演奏している」というのを聴衆にわかって貰えないと、これはちょっと困ったことになることもある。
カテゴライズされたセオリー上での演奏だと思われると(フリー/即興演奏のセオリー含む)「こいつらは何をやっているのだ」と拒絶されて終わるだけのことも少なくない。
この際の「コミュニケーション」は本当にそれぞれ違うので、これ以上説明することが出来ない。


そしてこの「特定の閉鎖空間」というのが時として大事なのではないか、と思う。
この日だけに感じたわけではないけど、オープンな野外スペースでの演奏は、
ステージと客席も遠く、聴衆(この場合「観衆」だろうか)と同じ場所にいる感じがつかみにくく(これも即興演奏に重要だと思う)
ロックコンサートのような直接的なやり取りはないものの、聴衆との何か交感するものが、いきおい
「こちらからあちらへのいきっぱなし」であったり「ありきたりのキャッチボール的コールアンドレスポンス」になりがちではないか、と思う。
そうならないためには、閉鎖空間、というよりも、演奏家(同士も)と聴衆ができる限り近いところにいてお互いの変化を感じやすい状況で、
「同じ場所にいる」という感覚があったほうがいいのではないか、という考えが浮かぶ。
少なくとも僕自身は、そうだ。
PAなどで拡声されているよりも、なんの音響設備もない空間(で十分な会場の大きさと聞こえ方、響き方も)で即興演奏することを好む。
この日に思い浮かんだのは、必要なのは何か「結界のようなもの」ではないか、と思い浮かんだ。
別に根拠はなく、直感で。


別にこの日の演奏が悪かったわけではない。
昨年同じステージでジムオルーク山本達久坂田明僕でやったときは、お互いの音が最初から最後まで殆ど聞こえない、というとんでもない状況で演奏した。
まあフェスなので満足いくサウンドチェックは出来ないから、というのも大きいが。
(不思議と客席からの声だと演奏は良かったそうだ)
この日はそれに比べると格段にお互いの音はよく聞こえたしコミュニケーションも取りやすかった。
それだけに、上のようなことを感じてしまったのかもしれない。
まあこれはこのへんで。


坂田さんと演奏するのは、いつも自分が空っぽになるような不思議な感覚とともにある。
蓄えた技術も経験も、そんなものはあっという間に吹っ飛んで、何も使えなくなり、その時の自分の生身をさらけ出すしか無い。
最初はそれに驚き、少しだけ、辛かった。
今は、そうではない。自分はこんなものだ、そして今に全力でいくだけだ、となれる清々しさがある。
我らのステージの最後に晴天が訪れたのは、なにか象徴的だった。