高岡大祐x登敬三x船戸博史@靱公園chovechuva

前回堀江のFUTUROで演奏したトリオをショヴィシュヴァで。
前回演奏した曲にいくつか新曲を追加。
曲選別に当たって、在庫の譜面を引っ張り出していたら、あるわあるわ、楽譜の山。
今まで参加したことのあるバンドでもらったものが殆ど、そして、その殆どが随分前のもの。
忘れかけていた記憶が多数蘇るとともに、ああ俺ってものすごい数のバンドをやってた(つまり辞めてきた)んだなあと思った。
さておき、
やりたい曲は山のように出てきたので、なんだかリッチな気分。
コピーでお足が出まくって財布はそうでもない。
リハもギリギリまでやって本番に臨む。
なんというか登さんは凄い「ジャズ」だなあと思う。
いわゆる世間的なジャズ、とは一線を画しているけど。
猛烈な説得力のある音の連続が、その場の空気を強烈な速度で変える。
船戸さんは、非常に肉体的に楽器と近いところで演奏する。
状況判断の素早さもさることながら、おもいっきり逸脱しているかの様なプレイも見事だ。
僕は、といえば、瞬間瞬間の変化を捉える事を気にしながらも、自分の「うた」であることを心がけた。
いや、決めていたわけではないのだけど。
特にこの編成だと音量の制約から解き放たれる。
時に大音量で吹くと自己嫌悪に駆られる自分はもしかしたらこの位の音量で吹くのが一番自分らしいのかもしれない。
特にこの日は、本来のtubaに求められる音から徹底的にかけ離れた音だった。
太く豊かなのではなく、痩せて掠れた音。
こうあらなくてはいけないという、楽器の特性からの拘束から離れた、体と直結した「うた」であること。
唇は不安定に、口腔は狭く、気道を細くするために首を捩る時もある、
それは奏法ではなくて、自然なかたち。
演奏中に動いてしまう動きは、圧倒的に正しい、と随分前に言っていたのは巻上公一さんだっけ。
心身が求める何かが体の動きに表れる、何かの目的のために体をそうするのではなく。
やはり、うまくいえないな。


ライブはうまくいったかいかなかったか、わからないけど充実した時間だった。
最前列の席から埋まっていったのも、店長かなみちゃんから「はじめまして、って感じやった!」といわれたのも嬉しかった。
ご機嫌で帰宅し楽器を肩から下ろした途端に、物凄い疲労がやってきた。
気がついてなかったけど、とても疲れていて、緊張していたみたいだ。
そりゃそうだ、10数年前の僕のスーパースター達とやってきたのだ、
アホだからすこんと忘れてた。
倒れる様に就寝。