『音曲価千金』大阪中崎町コモンカフェ

BOILERZ:高岡大祐 tuba,etc ワタンベ drums


中崎町モンカフェでボイラーズ演奏。
終わった瞬間の感想はただひとつ
気持ちよかった


自分は演奏の感想としてこういうがあまりなかった。
良いライブをした、という幸福感に包まれるときはたくさんあるけど
気持ちよかった、というのは、本当に数えられるほどしかない。
渋さ知らズでグランストンバリーフェスで出たとき、夕陽の落ちる時間まで
まるでセットされていたあのとき、とか、ほんの数回だ。
2千数百回(実数はよくわからないけど)以上ライブしていてもそんなもの。


終わった直後に、この気持ちよさはなんだろう、と思った。
それは美味いものを食った瞬間のおいしさのようでもあるし
愛している人との時間のようでもあるし
ホームランを一発打った快感のようでもあるし
サッカーのゴールを決めたときのような快感でもあるけど


そのどれらの気持ちよさを含みながら、やはり、違うもので。

もしかしたら
ずっと手に入れたくて仕方がなかった楽器が手に入った瞬間か
練習して出来なかったテクニックが自分のものになったときの快楽か
そんなことも考えたけど、やはり違う。


隣には相棒がいた。これは大きい。
はたしてなんだろうか。


寝る前に読んでいる一冊の本の項に、気持ちが重なるような文章があった。


「われわれが、何か言葉を出すときのメカニズムというのは
「本当はまだ言葉にならない状態があって、心の中に言いたいことや考えや感情や、
そういったものが何となくかたちづくられてきて、やっとそれを言い表すのに最もふさわしい
言葉とか文の形とか、それから言い方、スタイル・・・といったものがまとまってきて声になって
出る」ということなんですよ。
しかし、官僚の書いた文案というのはそのプロセスを経ない文章なんですよ。感情のプロセスを全然経ない、表面だけの言葉というものには、裏がない。言葉の生まれるプロセスを経ない。もう残骸みたいな言葉なんです。そうすると、そういう言葉というのは、相手に入っていかないのね。」

言葉と戦争の平和 糸井重里x米原万理対談 (言葉を育てる 米原万理対談集)より


上の文章は、どうも政治家の謝罪とかをテレビなどで見聞きしても誠意を全く感じないのはなぜか、ということに対する、ロシア語翻訳家の回答。
かっこ内にある「本当は・・・」の一文にふと落ち着いた。


僕は本当に音楽を言葉にすることが出来ない。
そのできないことを非言語コミュニケーション=音楽としてやっている。
ここで言われている、「言葉にならない、形になる前の何か」は音楽ではない、
僕やワタンベの、今まで生きてきたこと感じてきたこと全てを含んだ、
形のない何か、それを僕らは音や声にする。
意味や記憶の参照ではなくて、そうすることが僕らの音楽、なのかもしれない。


形になる前のものは、音楽ではないんだ。
すべての感情も、学んできたことも、技術も、環境も、生活も、もしかするとすべて、
僕らは生きていることの中からいろいろなことを感じて、生きている。
僕らは音楽家だ。だから音にする。
料理人なら絵にするだろうし、画家は絵にするだろう。
農家は農業と作物に、会社員なら労働の中に、
母は子にするように。
そこには嘘が介在する隙間は、まったくない。


ともあれ、
僕らはとても気持ちよかったし、幸福感に包まれていた。
思っていた以上にうまくいったからではない。
今まで生きていたことからすべてから受けた影響を
ボイラ−ズというフィルターを通して、自分らの音と声で、出せた。
ただこれだけのことで、やはり、言葉にはうまくできないな。