即響考

大学講師をされている著述家の昼間賢さんが、僕の新作「徳永将豪 高岡大祐 duo/solo」を聴いた後に、とても興味深い文章をツイッター上で書いていたので
本人の承諾を得て転載いたします。

個人的には「即響」、自分の今の音楽にはとてもフィットします。

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以下【即響考】と題して、サックス奏者の徳永将豪さんとチューバ奏者の高岡大祐さんのCD『duo / solo』および高岡編の『solos vol. 2 "BLOW"』を聞いて、つらつら考えたことを記します。お二人にはコメントの短さをお詫びしなければなりません。なお、「即響」とは昼間賢の造語です。ここでの記載が初となります。便利なら自由に使ってくださって構いません。

【即響考・1】まず、ぱっと聞いた感じ(大事)では、「どうやったらこんな音が出るんだろう」と。それぞれの楽器の「普通の」用法を極限まで否定して、ただかつての即興演奏家たちのように「否定してやってるぜ」という風でもない。いわば無心。心が介在しない音楽。かくも徹底的に泰然とした。

【即響考・2】歌好きな自分には、心が介在しない音楽がいかに困難であるかがわかる気がする。それだけに貴重で、物理的で自然な(=フィジカルな)音の存在理由は全面的に肯定したい。この根源的な音響は個人的聴取の記憶から様々な音景を喚起することになるが、それらについてはここでは書かない。

【即響考・3】リスナーとしては、この音響に身をゆだね、そうした様々な音景との偶発的・再帰的共鳴を楽しむだけで、十分充実した聴取の時間を味わうことができる。そのために各会場に足を運び、ライヴ全体の印象を個人的に記述してみれば、それ自体が「生を生きる」という体験になるだろう。

【即響考・4】ただしかし、この音響に到達し、かつ人前で演奏するには、想像を絶するほどの修練と心身のコントロールが必要であることも、徐々に明らかになるわけで。ただ奇抜な音をお楽しみくださいという音響ではなく、お二人は同意しないかもしれないが、
これには「普通の」音楽に、「普通の」生活に対する仮借なき批判が、渾身の否定があるに違いない。

【即響考・5】すなわち、この音響に到達するまでの彼らのすべてを想像して初めて、リスナーの聴取体験も完結するのではないかと思うのだ。だから高岡さんの率直な物言いも釣り日誌も、徳永さんの見れば見るほど平凡な写真も、僕の場合は彼らの音楽と切り離せず、その必要はないと考える。

【即響考・6】徳永さんの演奏について。思考の運動そのものというか、感応が官能に変わる瞬間の表出というか、この特異な音響からさらなる展開が予感され、期待される。

【即響考・7】高岡さんの演奏について。想像するに、彼が「普通に」吹いたら、さぞ柔らかな音色なんだろうなあ。この音響そのままで、古いアニメのサントラとしてもおもしろいんじゃないか。演奏の種類も、演奏中も、いろいろなことができそうなのに、気を遣いすぎな印象。あたたかな音響。

【即響考】今回は以上です。ライヴに行ったことがなく、自宅で音源を聞いただけの勝手な感想ですが、実は(僕のほうでも)言葉になるまでに約一か月かかっています。若干緊張し「さて書くぞ」とそのとき、即響という言葉が思い浮かびました。これはいいんじゃないかな。お二人の演奏の賜物でしょう。